現南都留郡西桂町倉見に居館を構えた戦国期の武将。小山田氏の一族。
倉見には、戦国時代に倉見新九郎という郡内小山田氏の武将がおり、この館跡があったことが(『甲斐国志』古蹟部)に記されている。
享禄2年(1529)6月20日、郡内領主小山田越中守信有の母(葛山氏の出で今川家重臣瀬名一秀室の妹)は、武田信虎との対立に備え、今川氏の支援を求めるため、遠州に行き姉と対面した。その後、10月11日に帰路に向かったが、途中、小林和泉守貞親の屋敷に一泊、小林尾張守入道の屋敷に一泊、そして、倉見新九郎の屋敷に一泊し、三日かけて中津森の小山田氏館に帰ったことが、『勝山記』に記されている。
倉見家は、相州三浦氏の流れをくみ、新九郎は小林和泉を父に、小山田弾正の娘を母に持ち、この倉見家の名跡を継いだとされる。
新九郎病死の後は、河村家の婿に入った新九郎の弟が倉見一帯を治めたとされる。
天文年間(1532〜55)に宝鏡寺を再興した河村越前守藤原秀盛やその子孫甚右衛門の名が『甲斐国志』に記されているほか、武田信玄に忠誠を誓った永禄10年(1567)の起請文に河村治部左衛門尉房秀の名が、小山田氏の有力家臣と共に認められる。