岩殿山円通寺(いわとのさんえんつうじ)

 岩殿山南東麓に伽藍を構えていた天台系寺院で、岩殿山と号し、本尊は十一面観音であった。
 大同元年(806)行基が建立したと伝えられる。三重塔の桝形には承平3年(933)の紀年と大旦那孝阿禅尼との銘があったとされる。
 永正17年(1520)の棟札によると上総国賢覚を本願として堂宇を修復、寄進者には武田信友・平(小山田)信有らの名がみえる。(『甲斐国志』)

(再建寄進者)     
鳥目百匹 武田左衛門(勝沼)大輔信友 駒一匹太刀一腰 当郡主護平(小山田)信有
駒一匹太刀一腰 平(小山田)藤丸上之奉行 駒一匹太刀一腰 藤原道光下之奉行
太刀一腰 源 実次 駒一匹太刀一腰 継吉
駒一匹太刀一腰 藤原実吉 駒一匹太刀一腰 藤原長吉
駒一匹太刀一腰 源 恵良 駒一匹 源 重胤
駒一匹 家重 三百文 白州信重
二百文 内匠助長吉 五百文 其時当郷代官長沼以秀
五百文 奥秋神右衛門尉長吉 二百文 牛田若狭守
二百文 奥秋大蔵、 百文 禅祐
五百文 強瀬四郎三郎 扉之本願 志村左近進長吉
駒一匹 強瀬六郎右衛門 同所二百文 八郎右衛門
三百文 藤崎番匠勝右右衛門    

 江戸期都留郡領主鳥居元忠は岩殿七社権現その他社領の別当職を常楽坊に与え、慶長6年(1601)鳥居成次は社領10石を寄進した(北条熱実家文書)。常楽坊は当寺の別堂で、京都住心院の配下として郡内の先達を勤めた。
 17世紀中頃に常楽坊は常楽院・大坊に分れたが、ともに本山派修験の触頭を勤めている(寺記)。秋元氏が領主であった時代には5石の免田を賜り、承応3年(1654)には秋元富朝、貞享2年(1685)には秋元喬朝の助力により堂宇を修復している(甲斐国志)。当寺は最盛期には三重塔・岩殿七社権現・常楽院に大坊・観音堂・不動堂そのほかの付属する諸施設と大伽藍を持っていたが(甲斐国志・寺記)、明治5年(1872)修験廃止の布告などにより衰退、同8年大坊の廃寺帰俗により廃絶する。
【詳しく知りたい人】
都留市史 資料編 古代・中世・近世T 1992 都留市史編纂委員会
甲斐国志 第3巻 仏寺部 雄山閣