谷 村 大 堰(やむらおおせぎ)
秋元泰朝は、寛永13年(1636)から約3年を費やし、田原の滝の上流から桂川の水を取り入れて谷村大堰(十日市場大堰)を開さくした。
大堰は、城下町に入って家中家敷を流れる「家中川」と、寺院の前を流れる「寺川」と町の中央を流れる「中川」とに分流して生活用水となったほか、家中川は城の堀を満たす用水ともなった。家中川はさらに、城の鎮守源正稲荷を過ぎてまもなく女川を分流し、この女川は道生堀を経て古川渡村方面に流れ桂川に落ちている。
一方、家中川の本流は横町で中川、弁天町で寺川を合流し、四日市場村方面に流れ菅野川に合流している。
谷村大堰の果たした役割は多岐にわたっていたが、そのなかで功績を数値で示せるものに、関係諸村の石高の量的推移がある。いま大堰の開削を間にはさむ文禄から寛文年間への検地高の推移を関係諸村について示すと、上谷村−528石から565石、下谷村−473石から817石、四日市場村−357石から402石、古川渡村−244石から322石となる。合計では1602石から2106石となり、文禄から寛文年間にかけて504石の石高の増加があったことがわかる。この石高の増加に、谷村大堰の果たした役割は多大なものであった。
潅漑用水の供給が、新田の開墾と収量の増大を関係諸村にもたらし、上谷村等四か村は、市域の村々のなかでは水田比率の高い村に属するようになった。ちなみに、各村の耕地面積中の水田比率は、四日市場村82%、古川渡村78%、下谷村66%、上谷村42%である。
谷村大堰は水量が豊富で、しかも流れが急であったため、水車の動力源としても最適であったといわれている。
水車は精米や製粉、明治以降には織機の動力に利用された。下谷村の弁天町の町名の由来は水神弁財天にあり、この付近は特に水車業者が多かったともいわれている。
- 【詳しく知りたい人】
- 都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会
都留市郷土研究会会報(十)1986 都留市郷土研究会
内藤恭義『谷村大堰開削 秋元泰朝創始事業説を否定する』
甲斐路 季刊101号 2002 山梨郷土研究会