慶長18年(1613)
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3月30日
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日下部五郎八宗好採茶の事奉り宇治に赴く。 |
寛永10年(1633)
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2月19日
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歩行頭朽木与五郎友綱、神尾宮内少輔守勝、近藤五左衛門用行、安藤次右衛門正珍巡年に宇治茶詰の事奉はる。 |
3月 4日
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歩行頭朽木与五郎友綱宇治茶詰の事命ぜられいとまたまう。この月(3月)加藤肥後守忠広が伏見の邸宅府庫を引うつして、宇治の上林峯順勝盛が宅地に構造せられ、茶庫並番所とせらる。小堀遠江守政一、権左衛門政尹これを監せり。 | |
寛永18年(1641)
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3月朔日
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歩行頭石野八兵衛氏照宇治採茶奉りて暇賜ふ。数寄屋のともがらも同じ。 |
7月 7日
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次に歩行頭石野八兵衛氏照宇治より帰謁す。 | |
10月 5日
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歩行頭石野八兵衛氏照甲州へ茶壷とりにまいるとて暇給ふ。 | |
10月 8日
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歩行頭石野八兵衛氏照甲府よりかへり参る。 | |
慶安2年(1694)
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3月朔日
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歩行頭岡部小次郎忠次宇治採茶のいとま下さる。 |
7月29日
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御茶壷を甲州郡内より持参するとて、歩行頭岡部小次郎吉次この事うけたまはる。 | |
8月朔日
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歩行頭岡部小次郎吉次甲州郡内より帰り参る。 | |
慶安3年(1650)
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3月22日
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松平伊豆守信綱は茶壷のことを掌り、阿部豊後守忠秋は刀剣のことを掌るべしと命ぜらる。 |
3月26日
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歩行頭大久保荒之助忠辰宇治採茶の暇給ふ。茶道等もおなじ。 | |
4月27日
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この日諸老臣に宇治茶を試みしむ。 | |
6月25日
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歩行頭大久保荒之助忠辰宇治より帰参す。 | |
承応3年(1654)
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10月14日
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歩行頭小出越中守尹賀に茶壷のこと命ぜられ、甲州谷村につかはさる。(尾張記、紀伊記)(国初には宇治の茶をとる事、歩行頭京にまかり、その茶を壷に収め、愛宕の山頂に納め、一夏をすごして冬にいたり。江戸に持かへりしが、中頃より愛宕をとゞめられ、京より直に甲州谷村へつかはし、夏中をかれたりしとぞ。それも今はまた変じて、府城富士見櫓に置るゝことゝなりしといへり)(数寄屋方傳) |
延宝4年(1676)
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6月10日
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御側松平因幡守信興に茶寮の事つかさどらしめらる。 |
天和3年(1683)
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4月26日
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徒頭永見甲斐守垂直宇治採茶の暇給ふ。 |
8月26日
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徒頭小出下野守守里、甲州谷村へ茶壷とりにつかはさる。 | |
9月 7日
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徒頭小出下野守守里甲州谷村より帰謁す。山城国宇治の里の茶めさるゝ事は、寛永9年よりはじまりて、そのかみは茶道頭一人、坊の地は代官所よりこれを供し、私領は領主々々よりあつくもてなし、其をごそかなるさまたとふるにものなし。厳有院殿の御時より、茶壷を愛宕山に収むる事はとゞめられ、甲斐国谷村に収め置て、護送の人は皆府にかへり。 秋にいたりまたかしこに赴きて、携へかへる事とせられしかど、猶駅路の費、役夫の労少からず。 公かねて其よししろしめしければ、道すがら護送の者ともを饗する事をやめられ、また徒頭の警衛をもとゞめられて、二条城に在番する大番一人をそへらるゝ事となりしに、元文3年(1738)より、谷村に収置事もやみて、今は京よりたゞちに府に送り、富士見の櫓にいれ置るゝ事となれり。かゝりし後は、行役苦をはぶく事、少からざりしとなむ。 |