小形山地区は、広大な耕地がありながら水利がないため「岡田村」といわれていた。
高川山から流れ出る水は少なく、一部の田を潤すことしかできず、殆んど雑穀を主体とした生活を余儀なくされていた。
このため、用水工事と開田化にむけて協議を重ね、代表者を井倉村の豪農小林徳兵衛に依頼し代官所へ陳情をおこなうことになった。
執拗な陳情の功が奏して、安永9年(1780)にいたり工事費719両が認められ、天明2年(1782)に起工の鍬入れが行なわれた。
堰は、羽根子境の桂川から取入れ、小形山中谷入口までの26町(2837メートル)で、堰の3分の2以上は岩盤のため、随道の掘削は、山の梨の木を燃して岩を暖めては掘り続けたといわれている。資金は欠乏し、徳兵衛は私財をなげ尽くし、16年の歳月を重ねて寛政10年(1798)事業は完成した。
その後、堰の取水口は大正12年桂川電気興業会社により川茂発電所のダムが建設され、ダム近くに変更されたが現在も堰は、豊富な水を小形山地区に流しつづけている。