
甲 斐 国 志(かいこくし)
寛政10年(1798)、甲府勤番支配として滝川長門守利雍が赴任した。利雍在任中の同11年(1799)は林大学頭衡の建議にもとづいて、甲斐の地誌を編纂することを利雍に命じた。利雍は国中三郡は、甲府学問所教授富田武陵、都留郡は森嶋弥十郎(其進)を起用し、編纂にあたらせた。しかし、編纂事業は遅れ、とりかかったのは享和3年(1803)であった。しかも緒についたばかりの文化2年(1805)7月には西丸小姓組番頭として離任し、国志編纂は一たん頓挫するのである。
しかし、事業は幕府の内命を受けて着任した後任の甲府勤番支配松平伊予守定能によって受継がれていった。
松平定能は着任早々この事業にとりかかったが、調査陣容などは全て一新し、新規まきなおしの体制をしいた。総裁には自らが当り、編纂の主任に巨摩郡西花輪村長百姓内藤清右衛門禽昌、都留郡主任に下谷村長百姓森嶋弥十郎其進、国中三郡編集に巨摩郡上小河原村神主村松弾正左衛門善政をあて、これら3名が編集の中心格となり、定能家臣と甲斐国の有識者を、手伝いあるいは助手として任命したのである。
翌文化3年(1806)正月、定能・清右衛門・弥十郎・弾正左衛門の協議によって甲斐国志編纂調査項目が確定し、2月1日に甲斐全村の名主長百姓宛に廻章をもって国志編纂のことと調査内容を知らせる急触れが出された。かくして、新体制のもとに調査が開始され、編纂がはじまったのである。
調査内容と、編纂要項に従って、都留郡は、国中三郡とは全く別個に弥十郎宅を編纂所として調査編纂することになった。
調査の基本となったものは、村々から提出された村明細帳と絵図であった(村明細の類は散じて諸家に残されたものが一部留められているに過ぎないが、絵図67枚は森嶋家に保存され、草稿類と共に昭和51年都留市に寄贈されたものである)。
絵図と村明細帳にもとずいて調査が緒についたばかりの文化4年に(1807)、松平定能が西丸小姓組番頭に任ぜられ、甲斐国を去ったことにより、編纂は困難さを増した上に、弥十郎は、より完全なものを求める性格上、考証傍証を重ねるために進行状況は計画を大幅に上廻るものとなった。定能から矢のような督促が寄せられる中で、文化8年国志編纂事業成就を願って、祖先の在所、加畑村の氏神小御嶽神社に石段と灯ろうを寄進し、さらに、門人等は上谷村の学神天神社へ大願成就の願をかけ、石灯ろう一対の献灯をしたのである。
まとめられた草稿は次々と江戸の松平定能邸に送られ、内藤清右衛門の草稿と合され、それぞれの部門毎に編集されていったが、士庶部に及ばぬうちに編集が打ち切られ、文化11年(1814)12月16日、124巻にわたる甲斐国志は、71冊に仕立てられて幕府へ献上されたのである。
いま士庶部は甲斐国志草稿として都留市に蔵されているが、甲斐国志幻の一巻として残るものである。
『甲斐国志』は、松平定能の私撰とされているが、このように実際には、都留郡は森嶋弥十郎を中心とする人々によって編纂されたものである。それにもかかわらず、当時の慣習によって、序文にも本文中のどこにも弥十郎の名は勿論、内藤清右衛門の名さえも一字たりとも見出せないのである。
- 【詳しく知りたい人】
- 都留市史 資料編 都留郡村絵図・村明細帳集 1988 都留市史編纂委員会
都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会
甲斐国志 草橋