郡 内 縞(ぐんないじま)

 夏袴地の郡内平については、秋元家が谷村にいた時に、「家中の内職に夏袴を織りたるが郡内平」であるとしている。江戸時代の小大名や東北諸藩の大名の家臣は、家禄や俸禄だけでは生活が大変であったことから、内職や商売をしていた者がいたが、秋元家の家臣も、郡内に居城したときばかりでなく、川越や山形へ転封した時も、その地で夏袴地を内職として織っていたようである。こうしたことから、秋元家の家中への絹織奨励が、郡内平(夏袴地)の生産技術を郡内農村へ広めたことは十分に考えられる。
 ところで、「秋元家甲州郡内治績考」に収録されている「古語菽麦」には、上州絹の技術を郡内に移して織り出したことから、他所の商人が郡内へ絹を調えに来るようになったとある。また、家禄500石の高山五兵衛家には、絹師12人が抱えられており、家禄450石の某高祖父のところには絹師8人がいたとある。そしてまた、「秋元家甲州郡内治績考」収録の「旧家断絶記」には、大友理左衛門家の説明に、この者は総社以来の御家人で、郡内にては絹運上、桑運上などがまだ実施されない頃に、絹師の方より冥加金として絹1疋につき銀5匁の金子を出させたが、それを受け取る役がこの者であったとしている。
 「旧家断絶記」や「古語菽麦」は、のちに編集された史料ではあるが、谷村藩主秋元家が郡内を支配した時代、家臣の家に絹師が抱えられていたり、絹運上請負人制度が設けられる以前に、絹や桑の冥加金を受け取る役を大友理左衛門が勤めていたというように、秋元時代には家臣のなかでも絹織りが盛んであったことがうかがえる。

『萬金産業袋(ばんきんすぎわいぶくろ)』 享保17年(1731)
 商売の秘密や奥義を聞いて、諸品・諸職・諸商売の大概を6巻にまとめたものであるが、その中には諸国より産する産物として、「郡内縞」が紹介されている。
 「郡内嶋、甲州郡内より出る、幅九寸五分、丈五丈五四尺、また六丈二尺もあり、もよう地いろ色々、玉むし地あり、白地あり、地に綾あるを八反がけという、黒地に白の横糸一すじ三分ばかりずつ浮たるをこまがらという、或いは角つなぎかすり入りなど有り、京都内とて紛れあれども、地よわくてよろしからず、故に今はすくなし白郡内、出所や幅、丈右同断、つやよし、亀甲・菱・綾・杉などの紋織り有り、これを菱郡内、京にては紋郡内という。
 織色郡内、出所や幅、丈右同断、色は色々、玉むし類多し、海気ににたるによって郡内海気という、紋織り菱織りなども有り、そうじてこの郡内、しろ・嶋・織色とも、甲州谷村の辺より出るは上品なり、また、鶴川とて、嶋・しろ共に出る、これはよほど地合うすくて格別つぎなり、値段安きをのみ好む人は、みなこれを用ゆ」。

『甲州噺』享保17年
 郡内領は、田は少なく畑多し、山畑にて悪敷也、検地百姓の改めにて場広なる由、これにより高(石高)に応ぜず人数・馬牛等も大分にこれあり、田畑の畔は桑・漆也、かいこを以て世を渡る。郡内より織り出し候絹、一か年に大概五万疋余もこれあり、これより郡内のかいこ・糸ばかりにて不足の年中織り出し候へども、上物と申は、右に記し候村より織り出し候旨これ申すとある。

『日本永代蔵』 井原西鶴
 商いの道はある物、三井九郎右衛門といふ男、手金の光、むかし小判の駿河町という所に、面9間に40間に、棟高く長屋作りして新棚を出し、「万現銀売りに掛値なし」と相定め、四十余人利発手代を追ひまわし、1人1色の役目、たとえは、金襴1人、日野・郡内絹類1人、羽二重1人、紗綾類1人、紅類1人、麻袴類1人、毛織類1人、このごとく手わけをして、天鷲絨(びろーど)1寸4方、緞子毛貫袋になる程、緋繻子鑓印だけ、竜の袖覆輪かたかたにても、物の自由に売り渡しぬ、殊更俄目見えの熨斗目、いそぎの羽織などは、その使いをまたせ、数10人の手前細工立ちならび、即座に仕立て、これをわたしぬ、さによって家栄え、毎日金子150両ずつならして商売しけるとなり。

【詳しく知りたい人】
都留市史 通史編(其の一其の二)1996 都留市史編纂委員会
秋元家甲州郡内治績考(館林本準拠校訂版)1994 秋元藩政研究会
郡内機業のあゆみ(創立60周年記念して)1965 山梨県繊維工業試験場
郡内機業発展史 上 研究報告第2集 1957 谷村高等学校社会部
郡内機業の歴史 1957 手塚寿男ほか共著 都留郡内機業史研究会