(谷村での俳諧活動)
谷村で芭蕉が詠んだ句に「夏馬の遅行我を絵に見る心哉」がある。
これは当時江戸で流行していた漢詩文調の俳諧の影響が感じられるもので、後に、推敲が重ねられ「馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな」という句となった。「馬ぼくぼく」の句は、芭蕉一行が広々した夏野をゆったりと歩むイメージに対して「夏馬の遅行」に感じられるのは、険しい山々とその間を進む馬上の人物の姿を描いた、中国の山水画のような世界ともいえ、江戸からはるばるやってきた芭蕉の心意気を読みとることができる。
芭蕉が、泰安寺(秋元家菩提寺)を訪れ、詠んだと思われる次の句がある。
松風の落葉か水の音涼し 『蕉翁句集』
松の木を渡る風の音と、桂川の水音を重ね合わせた句であり、「松風」には共に響き渡る風流な人間関係。
つまり芭蕉と芭蕉を谷村に招いた高山麋塒との親密な関係が込められたものと考えられる。
また、谷村で成立した次の連句がある。
笠面白や卯の実村雨 一晶
散蛍沓に桜を払らん 芭蕉
「笠面白や」の句は卯の実が笠にばらばらとあたる様子を、「村雨」にたとえたものであり、続く「散蛍」は、蛍が飛びかっているのは、沓で桜を払っているようだ、というの意味である。『詩人玉屑』に載っている「笠は重し呉天の雪、鞋は香し楚地の花」を踏まえた句で、呉は中国の北の国、楚は南の国であり、この度の勧めともいうべき詩句を芭蕉は好んでいたといわれている。
谷村においてこの句にこだわっていたということは、やはり谷村への来訪を芭蕉は旅ととらえていたことが理解できる。
この一年後、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅にでる。
(芭蕉と麋塒)
松尾芭蕉と高山麋塒の交流を示す次のような懐紙がある。
(関防印「江川臨川」)
高山麋塒興行にて
草庵の月見ける 洛の
信徳 山素堂 各々佳作
有リ 素堂月見の記ヲ書
月十四日今宵三十九の童部
(落款印「桃青」)
麋塒が「興行」つまり経費を負担し、「草庵」深川の芭蕉庵でひらかれた月見の会の様子を伝えるものである。
京都の俳人伊藤信徳、芭蕉の友人の隠者山口素堂が同席し、「月」といえば当時は8月の十五夜を指すので、8月14日、満月の前夜、芭蕉39歳の折の会と考えられる。
さて、このような交流があったにもかかわらず、『野ざらし紀行』には、「甲州」の名前が登場するだけで、麋塒らしい存在は確認できないのはなぜか。
芭蕉の『野ざらし紀行』における甲州入りの経路については、次のような説がある。
@諏訪方面から甲州街道を江戸に向かったとする説
A東海道から富士川沿いに甲州に入り、江戸に向かったとする説
B東海道から籠坂を越え、山中湖・谷村・大月を経て江戸へ向かったとする説などがあるが、東海道から来たのなら、甲府に知人のいない芭蕉がそこを通る必然性はない。
また、『野ざらし紀行』の旅の途中において詠まれた、「甲州」に関わると伝えられる次のような句がある。
(A)甲斐山中に立ちよりて 行駒の麦に慰むやどり哉 『野ざらし紀行』
(B)甲斐山中 山賎のおとがい閉るむぐらかな 『続虚栗』
(C) 雲霧の暫時百景をつくしけり 『芭蕉句選拾遺』
(A)は共に旅してきた馬が麦を食べてくつろぎ、自身も旅の疲れをいやしている様子を、(B)はむぐら(雑草)生い茂る宿が無口なきこりの様に門を閉じている様を、
(C)は富士山の姿が雲や霧で様々に変化する様を表したものであり、(C)の句の書かれた懐紙には「甲州吉田に所持の人あり」との記述がある。
芭蕉はBの経路をとったと考えられる。(ただし、この句は甲州で詠まれたものではない。芭蕉が甲州を通過したのは貞享2年夏であり、この句の「雲霧」は秋の季語である。
『野ざらし紀行』出発の折、貞享元年秋に詠まれ、持ち歩いていたものを一宿の礼として置いていったと思われる。)
芭蕉が甲州を通ったのは旅の終わり、江戸に入る直前であり、『野ざらし紀行』の末尾では別れの句が続き、人物の名前ばかりが目に付く。『野ざらし紀行』に麋塒の記述がないのは、ここで麋塒の名前を出すのはあまりにも重く、文学作品としては甲州に立ち寄ったとさえいえればよかったと推察され、麋塒の存在があればこそ、芭蕉は甲州への路を選んだといえる。
その交流の実態をいくつかの句や書簡が伝えている。
現存する最も古い芭蕉の書簡は、天和元年(1681)5月15日付け、麋塒宛に俳句を指導した書簡である。
丁寧かつ忌憚の無い芭蕉の物言いからは、2人のそれ以前からの親しい付き合いが想像される。この天和元年から天和3年(『野ざらし紀行』の帰途、麋塒を訪ねたとすれば貞享2年まで)の間に芭蕉と麋塒の交流は集中しており以後芭蕉は甲州訪問の思いを表明しているものの、その機会もなく、元禄7年(1695)大阪で客死する。
そしてその思いは、芭蕉の死より1年後、元禄八年(1695)の杉風からの書簡により、麋塒に伝えられている。