
山 崎 保 代(やまざきやすよ)
太平洋戦争が勃発して半年後、昭和17年6月、日本軍はミッドウェイ海戦の補助的作戦としてアリューシャン列島のアッツ、キスカの2島を占領した。
同18年5月12日、アメリカ軍は1万1000余の兵力をもってアッツ島に進攻した。日本軍守備隊長山崎保代大佐は、守備隊員2500余名を率いこれに応戦したが、5月29日全員突撃して玉砕した。
その結果、アッツ島の玉砕は軍人の華として宣伝され、それがあたかも流行であるかのように戦局の悪化に伴い、太平洋諸島はつぎつぎとアメリカの反撃によって玉砕陥落していった。
山崎大佐はのちに中将に特進した。四日市場保寿院住職山崎玄洞の二男で、名古屋幼年学校から陸軍士官学校に進み、中国大陸に転戦したのち、アッツ島の守備を強化するため赴任したばかりであった。
戦後全国のアッツ島戦没者遺族と地域の人々によって、勇士の菩提を弔い、かつ、世界平和を願って、昭和29年5月19日、アッツ観音が四日市場保寿院境内に建立され、毎年5月29日には、アッツ観音奉讃会によって慰霊祭が行なわれている。
- 【詳しく知りたい人】
- 都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会
都留市史 資料編 近現代 1993 都留市史編纂委員会