『古事記』『日本書紀』の記事で甲斐に関係して一番有名なのが、ヤマトタケルノミコトの酒折宮伝説である。
景行天皇の皇子ヤマトタケルノミコトは、熊襲征伐から帰ると、休むいとまもなく父の命令で、荒ぶる神やまつろわぬ者共を征服するため東征の途についた。
『古事記』と『日本書紀』とでは記事に若干のちがいがあって、『古事記』では、蝦夷を平定して足柄の坂に登り立ち、先に竜神の怒りを静めるために海に入って亡くなった妃の弟橘比売命(おとたちばなひめ)をしのんで、「吾妻はや」といったのが、東の国の名の起りであるという有名な伝承を挙げた後に、次の文章がある。
すなはちその国より越えて、甲斐に出でまして、酒折宮に坐しし時、歌ひたまひしく、新治筑波を過ぎて幾夜か寝つるとうたひたまひき。ここにその御火焼の老人、御歌に続ぎて歌ひしく、かがなべて夜には九夜目には十日をとうたひき。ここをもちてその老人を誉めて、すなはち東の国造を給ひき。
ミコトはこれより信濃国に越え、さらに尾張国に向ったとするのである。『古事記』の想定したミコトの入国のコースが、籠坂・御坂の両峠を越えて国中へ入る後世の駅路(中世の鎌倉街道)ないしそれに近いものであったことはほばまちがいないところとされ、信濃へのコースも甲府盆地から釜無川沿いに北西に進んで諏訪地方へ入る道を想定されている。
一方、『日本書紀』の方では、ミコトの甲斐への出入のコースがちがっている。
蝦夷を平定して、日高見国より西南のかた常陸を経て甲斐国酒折宮にきて、御火焼の老人を厚く質し、ここから再び関東に出て、武蔵・上野を経て碓日坂に至った。亡妃をしのんで「吾嬬はや」といったのはここであったというのである。これによると、甲斐への出入りのコースが、のちの東海道支路(いわゆる甲斐路)とは別であることが知られる。常陸から甲斐へどう入ったかは説明していないが、どう出たかについては、「則ち甲斐より北、武蔵・上野を転歴りて、西碓日坂に逮ります」と述べて、甲斐から北方、武蔵へ出るコースを想定している。
武蔵が東海道に所属するのは771(宝亀2)年以後であるから、書紀の編者は、甲斐と東山道の武蔵とを結ぶ路線のあったことを前提としてこの伝説を書いていると考えられている。もちろん、その路線が、のちの甲州街道か、青梅街道か、あるいは秩父往還かは断定できないが、とにかく、甲斐と武蔵とが結ばれていたという認識がもたれていた。
甲斐におけるヤマトタケルノミコト伝説の中心である酒折宮の場所についても、昔は異説があったが、今日では甲府市酒折町の酒折宮がそれであるとほば定説化されている。火焼の老人と歌の問答をかわしたという上記の伝説があることから、これが連歌の起りであるとして、後世連歌発祥の地として有名となった。今日、酒折宮の境内には、山県大弐の「酒折両碑」と本居宣長撰、平田篤胤書の「酒折宮寿詞」の碑とが立っている。
それはともかくとして、このヤマトタケルノミコト東征伝説は、そのまま事実ではないが、優秀な鉄器文化をもった大和朝廷の大王たちが何代もかかって東に西に国内統一事業をなしとげたという史実が、ヤマトタケルノミコトという一英雄の熊襲・蝦夷征服の伝承となって伝えられたものとされる。
郡内地域を、ヤマトタケルノミコトが通ったとする記載は『古事記』『日本書紀』にも認められないが、 都留市大幡の春日神社には、次のような伝承が『都留の今昔』に載せられている。「日本武尊の東征のおり、国中の酒折の宮に向かうため都留市の大幡から本社丸を越えて行かれたが、この中腹にある傘岩(かさを立てたような格好をしているのでそう呼ばれていた)に日本武尊を祀る祠があった。正治三年(1201年)8月1日の明け方、この祠のある場所から現在の神社のある諏訪の森に白雲がたなびいて、日本武尊のお姿がうかばれたので、本社丸から現在の場所に移して祀られた。また、神社の名前も諏訪明神から、船形春日大明神に改められ、元文二年(1738年)に諏訪明神を先の神様とし、同じ社殿の中に祀るようになったとされる。
日本武尊が休息した腰掛け位の石が神社の神体であり、60年目毎の庚申の年にお召し替えといってさらしを巻き替える行事があったという。
また、周囲には、日本武尊が日本平定の征伐の際、大幡村の東方にあった大石の上に座り、四方を御覧になられたという伝説のある御座石(畳十畳程)もある。御座石は、現在も「都留いきものふれあいの里」内にある。