574(敏達 3)
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聖徳太子、生まれる。 |
585( 同 14)
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8月15日、敏達天皇、逝去。9月5日、大兄皇子、即位(用明天皇)。 |
586(用明元)
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5月、穴穂部皇子、三輪逆を討つと称し大連物部守屋とともに磐余池辺(宮?を囲む)(用明暗殺の疑いあり)。 |
587( 同 2)
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4月9日、用明天皇、逝去。6月7日、大臣蘇我馬子、大后額田部皇女の命を奉じ穴穂部皇子を殺害する。7月 蘇我馬子、諸皇子を奉じ物部守屋を討つ(丁未の役)。聖徳太子(14)、参戦する。8月2日泊瀬部皇子、即位(崇峻天皇)。 |
588(崇峻 元)
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この年、大臣蘇我馬子、飛鳥寺(法興寺)の造営を開始する。 |
592( 同 5)
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11月3日、大臣蘇我馬子、東漢駒に命じ崇峻天皇を殺害させる。12月8日、大后額田部皇女、豊浦宮で即位(推古天皇) |
595(推古 3)
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5月10日 高句麗より慧慈が来る。 |
596( 同 4)
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10月 聖徳太子(23)、伊予温湯に赴くという。 |
600( 同 8)
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この年、新羅に出兵。隋に使いを派遣する(第一次遣隋使)。 |
601( 同 9)
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2月、聖徳太子(28)、斑鳩宮の造営に着手する(このころ、国政に参画開始か)。このころまでに山背大兄王誕生(母は蘇我刀自古郎女) |
602( 同 10)
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2月1日、来目皇子を撃新羅将軍とする。 |
603( 同 11)
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2月4日、来目皇子、筑紫で陣没する。4月1日、当麻皇子を撃新羅将軍とする。7月6日、当麻皇子、妻舎人姫王死去のため出兵を中止する。12月5日、冠位十二階を制定する。(翌年元旦に施行) |
604( 同 12)
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4月3日、聖徳太子(31)、憲法十七条を制定するという。 |
605( 同 13)
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閏7月1日、聖徳太子(32)、諸王・諸臣に褶を着用させる。10月、斑鳩宮完成。聖徳太子、斑鳩宮に遷る。 |
607( 同 15)
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2月1日、聖徳太子(34)のために壬生部を定める。7月3日、小野妹子を隋に派遣する(第二次遣隋使)。このころ 斑鳩寺(法隆寺)、完成か。この年、倭・山背・河内に池溝を築造。国ごとに屯倉を設置する。 |
608( 同 16)
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4月、小野妹子、隋使裴世清を伴って帰国する。9月11日、小野妹子を再び隋に派遣する(第三次遣隋使)。 |
610( 同 18)
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1月、倭国が隋に使いを遣わす(第四次遣隋使)。 |
612( 同 20)
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隋の煬帝、第一次高句麗遠征を断行する。 |
613( 同 21)
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隋の煬帝による第二次高句麗遠征。国内で反乱が起きる。 |
614( 同 22)
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6月13日、犬上御田鍬らを隋に派遣する(第五次遣隋使)。この年 隋の煬帝、第三次高句麗遠征を断行する。 |
615( 同 23)
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11月15日、慧慈が高句麗に帰国する。 |
618( 同 26)
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隋の煬帝が殺され、隋が滅んで唐が成立する。 |
620( 同 28)
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この年、聖徳太子(47)、大臣蘇我馬子とともに「天皇記」「国記」を撰録するという。 |
621( 同 29)
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12月、穴穂部間人皇女、逝去。 |
622( 同 30)
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2月、聖徳太子、斑鳩宮で逝去(49)。このころまでに山背大兄王、異母妹の春米女王と結婚、父聖徳太子の主要な財産(斑鳩宮・壬生部)を継承(用明・聖徳の直系を意味する「上宮」の称号もこのころ成立か) |
623( 同 31)
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この年、境部雄摩侶を大将軍として撃新羅軍を派遣する。 |
626( 同 34)
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5月20日、大臣蘇我馬子、逝去(76)。桃原墓の造営を開始する。 |
628( 同 36)
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2月27日 推古天皇、発病。3月6日、推古天皇、田村皇子と山背大兄王を召して遺詔。3月7日、推古天皇、逝去(75)。9月20日、推古天皇の葬礼始まる。9月24日、推古天皇を竹田皇子陵に合葬。この後、蘇我蝦夷、次期大王について群臣に諮る。山背大兄王、推古天皇の遺詔の解釈をめぐり蝦夷と交渉する。蘇我蝦夷と同族の境部摩理勢、桃原墓の造営現場で決裂。この後、蝦夷、摩理勢とその一族を討ち滅ぽし、蘇我氏の族長位を継承する。 |
629(舒明元)
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1月4日、田村皇子、即位(舒明天皇)。 |
630( 同 2)
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8月5日、犬上御田鍬・薬師恵日らを唐に派遣する。(第一次遣唐使) |
632( 同 4)
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10月4日、遣唐使、唐使高表仁を伴い帰国する。 |
633( 同 5)
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1月26日、高表仁、王子(山背大兄王か?)と礼を争い朝命を告げずに帰国する。 |
641( 同 13)
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10月9日、舒明天皇、逝去。 |
642(皇極元)
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1月15日、舒明大后宝皇女、即位。(皇極天皇)この年 蘇我蝦夷・入鹿、今来に双墓を造る。上宮乳部の民を動員・使役し、上宮大娘姫王(舂米女王)の憤激を招く。 |
643( 同 2)
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11月、山背大兄王、蘇我入鹿・軽皇子らに斑鳩宮を襲撃される。生駒山に避難するが、抗戦を断念し、斑鳩寺に戻り一族とともに自殺する。この時弓削王(山背大兄王の子)、斑鳩寺に潜入するが、大狛法師に殺害されるという。 |
645( 同 4)
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6月12日、蘇我入鹿、飛鳥板蓋宮で殺害される。6月13日、大臣蘇我蝦夷、甘檀岡の自邸で自害。蘇我本宗家滅びる。(乙巳の変)。6月14日、皇極天皇、同母弟軽皇子に譲位する。(孝徳天皇) |