聖徳太子(しょうとくたいし)

甲斐の黒駒に乗る聖徳太子 用明天皇の第2皇子。母は穴穂部間人皇女。
 名は厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)。聖徳太は諡名。上宮王ともいう。おばにあたる推古天皇の摂政として内外の政治を整備した。
 推古11年(603)冠位十二階を定め、翌年には、十七条憲法を制定。国史の編纂を行い、同15年(607)小野妹子を隋へ遣わし国交を開き、大陸文化の導入につとめた。 
特に、仏教興隆に尽力し、「三経義疏」を著わし、法隆寺・四王寺を建立するなど多くの業績をのこした。
【聖徳太子年表】
574(敏達 3)
聖徳太子、生まれる。
585( 同 14)
8月15日、敏達天皇、逝去。9月5日、大兄皇子、即位(用明天皇)。
586(用明元)
5月、穴穂部皇子、三輪逆を討つと称し大連物部守屋とともに磐余池辺(宮?を囲む)(用明暗殺の疑いあり)。
587( 同 2)
4月9日、用明天皇、逝去。6月7日、大臣蘇我馬子、大后額田部皇女の命を奉じ穴穂部皇子を殺害する。7月 蘇我馬子、諸皇子を奉じ物部守屋を討つ(丁未の役)。聖徳太子(14)、参戦する。8月2日泊瀬部皇子、即位(崇峻天皇)。
588(崇峻 元)
この年、大臣蘇我馬子、飛鳥寺(法興寺)の造営を開始する。
592( 同 5)
11月3日、大臣蘇我馬子、東漢駒に命じ崇峻天皇を殺害させる。12月8日、大后額田部皇女、豊浦宮で即位(推古天皇)
595(推古 3)
5月10日 高句麗より慧慈が来る。
596( 同 4)
10月 聖徳太子(23)、伊予温湯に赴くという。
600( 同 8)
この年、新羅に出兵。隋に使いを派遣する(第一次遣隋使)。
601( 同 9)
2月、聖徳太子(28)、斑鳩宮の造営に着手する(このころ、国政に参画開始か)。このころまでに山背大兄王誕生(母は蘇我刀自古郎女)
602( 同 10)
2月1日、来目皇子を撃新羅将軍とする。
603( 同 11)
2月4日、来目皇子、筑紫で陣没する。4月1日、当麻皇子を撃新羅将軍とする。7月6日、当麻皇子、妻舎人姫王死去のため出兵を中止する。12月5日、冠位十二階を制定する。(翌年元旦に施行)
604( 同 12)
4月3日、聖徳太子(31)、憲法十七条を制定するという。
605( 同 13)
閏7月1日、聖徳太子(32)、諸王・諸臣に褶を着用させる。10月、斑鳩宮完成。聖徳太子、斑鳩宮に遷る。
607( 同 15)
2月1日、聖徳太子(34)のために壬生部を定める。7月3日、小野妹子を隋に派遣する(第二次遣隋使)。このころ 斑鳩寺(法隆寺)、完成か。この年、倭・山背・河内に池溝を築造。国ごとに屯倉を設置する。
608( 同 16)
4月、小野妹子、隋使裴世清を伴って帰国する。9月11日、小野妹子を再び隋に派遣する(第三次遣隋使)。
610( 同 18)
1月、倭国が隋に使いを遣わす(第四次遣隋使)。
612( 同 20)
隋の煬帝、第一次高句麗遠征を断行する。
613( 同 21)
隋の煬帝による第二次高句麗遠征。国内で反乱が起きる。
614( 同 22)
6月13日、犬上御田鍬らを隋に派遣する(第五次遣隋使)。この年 隋の煬帝、第三次高句麗遠征を断行する。
615( 同 23)
11月15日、慧慈が高句麗に帰国する。
618( 同 26)
隋の煬帝が殺され、隋が滅んで唐が成立する。
620( 同 28)
この年、聖徳太子(47)、大臣蘇我馬子とともに「天皇記」「国記」を撰録するという。
621( 同 29)
12月、穴穂部間人皇女、逝去。
622( 同 30)
2月、聖徳太子、斑鳩宮で逝去(49)。このころまでに山背大兄王、異母妹の春米女王と結婚、父聖徳太子の主要な財産(斑鳩宮・壬生部)を継承(用明・聖徳の直系を意味する「上宮」の称号もこのころ成立か)
623( 同 31)
この年、境部雄摩侶を大将軍として撃新羅軍を派遣する。
626( 同 34)
5月20日、大臣蘇我馬子、逝去(76)。桃原墓の造営を開始する。
628( 同 36)
2月27日 推古天皇、発病。3月6日、推古天皇、田村皇子と山背大兄王を召して遺詔。3月7日、推古天皇、逝去(75)。9月20日、推古天皇の葬礼始まる。9月24日、推古天皇を竹田皇子陵に合葬。この後、蘇我蝦夷、次期大王について群臣に諮る。山背大兄王、推古天皇の遺詔の解釈をめぐり蝦夷と交渉する。蘇我蝦夷と同族の境部摩理勢、桃原墓の造営現場で決裂。この後、蝦夷、摩理勢とその一族を討ち滅ぽし、蘇我氏の族長位を継承する。
629(舒明元)
1月4日、田村皇子、即位(舒明天皇)。
630( 同 2)
8月5日、犬上御田鍬・薬師恵日らを唐に派遣する。(第一次遣唐使)
632( 同 4)
10月4日、遣唐使、唐使高表仁を伴い帰国する。
633( 同 5)
1月26日、高表仁、王子(山背大兄王か?)と礼を争い朝命を告げずに帰国する。
641( 同 13)
10月9日、舒明天皇、逝去。
642(皇極元)
1月15日、舒明大后宝皇女、即位。(皇極天皇)この年 蘇我蝦夷・入鹿、今来に双墓を造る。上宮乳部の民を動員・使役し、上宮大娘姫王(舂米女王)の憤激を招く。
643( 同 2)
11月、山背大兄王、蘇我入鹿・軽皇子らに斑鳩宮を襲撃される。生駒山に避難するが、抗戦を断念し、斑鳩寺に戻り一族とともに自殺する。この時弓削王(山背大兄王の子)、斑鳩寺に潜入するが、大狛法師に殺害されるという。
645( 同 4)
6月12日、蘇我入鹿、飛鳥板蓋宮で殺害される。6月13日、大臣蘇我蝦夷、甘檀岡の自邸で自害。蘇我本宗家滅びる。(乙巳の変)。6月14日、皇極天皇、同母弟軽皇子に譲位する。(孝徳天皇)
(年表は、遠山美都男『聖徳太子ー未完の大王』NHKライブラリーより)

太子社の聖徳太子像

太子社の聖徳太子像 富士急行線長者町(つる4丁目)踏切りの手前を右に入ると太子社がある。太子社の祭神は、黒駒に乗った聖徳太子の木像で、製作年代は不明である。現在の社殿は、昭和47年に建てられたもので祭礼は4月15日に行なわれている。
 徳重の地名の起こりは、もとこの地に徳重長者という豪族が住んでいたことによると伝えられており、この徳重長者の屋敷神として祀ってあった聖徳太子像が現在の太子社の祭神といわれている。 
付近には、長者が馬を飼育したという「お厩」あとがあり、「桜久保」「桜馬場」の地名が残っている。昭和10年頃、太子堂近くの田から高さ30_程の「徳重」と刻んだ年代は不明だが御影石が出土したといわれている。現在、このあたりを長者町とよんでいるのは、この徳重長者の伝承からである。
『扶桑略記』には、聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って、富士山の上に至った伝説が記されている。
 聖徳太子は臣下に命じて全国より書き馬を求めたところ、名馬の産地甲斐より烏駒という体が黒い馬が献上されてきた。太子は大いに喜びさっそく、舎人に調教を加えさせて、やがて試乗してみたところ、たちまち雲に浮かんで東方に走った。3日ののち帰ってきた太子は臣下に向かって、我はこの馬に乗って雲を踏み、霧をはらって直ちに富士山の上に至ったが、転じて信濃にも行った。飛ぶことまさに雷震のようで、まことに神馬であるといったという。
 馬上の聖徳太子像は、勝山村の卸室浅間神社をはじめ、富士山七合目の「駒ヶ岳」にも祀られている。