徳富蘇峰(とくとみそほう)

蒼竜峡(十日市場) 文久3年(1863)に熊本県に生まれる。本名は猪一郎。蘆花の兄。熊本洋学校に学び花岡山の盟約に参加。
 同志社に学ぶが中退。明治19年(1880)「将来の日本」で登場し、民友社創立。同20年「国民の友」、同23年「国民新聞」を創刊。平民主義を主唱した。三国干渉を機に国家主義に転向、政治的には桂太郎と結び、同24年貴族院勅選議員となったが、日比谷焼討事件、大正政変では社屋が焼き討ちにあった。桂が死後は、政治から身をひき著述活動に専念。昭和4年経営不振のため民友社から退いたが、皇室中心主義・国家主義に思想により満州事変後の戦時体制下の過程で軍部と結び、大日本言論報告会会長などに就いたが、終戦後公職追放を受け、文筆生活に入った。蘇峰の別荘が山中湖畔にあったことから、富士北麓との関わりが深い。
 昭和9年8月25日、宝鏡寺の佐藤暎三和尚、東桂村長中野昇平、十日市場保勝会杉本忠一、鹿留保勝会長伊藤茂十等数名は、十日市場の今橋のあたりに徳富蘇峰を案内した。この時、蘇峰は、その景観にみとれ感歎久しくして、「蒼竜峡」と名付けた。
 そして、有志の希望により、標柱に蒼竜峡と書いて、十日市場側の入口に立てられた。蘇峰の書は、肉太の雄渾なもので、力強さと信念の人らしさを感じさせるものであったとされる。
【詳しく知りたい人】
中野八吾 『十日市場小誌』 1985