武田信虎(たけだのぶとら)

武田信虎画像(大泉寺所蔵)◇信恵父子・小山田氏との抗争
 永正4年(1507)、父信縄が没し14歳で家督を相続すると、曾根の勝山城(東八代郡中道町)に拠る叔父信恵父子が、弟縄美、郡内の小山田弥太郎らを誘い、幼主に叛旗を翻した。信虎は苦境に立ったが、翌5年10月4日の戦いで信恵父子や縄実らを敗死させ、12月には弥太郎らを討死させて最初の試練に勝つことができた。

◇今川・大井との抗争
 しかし、小山田氏との抗争、大井・栗原・今井・穴山氏ら武田一族の反抗、さらに彼らと結んで北条・今川・諏訪氏ら隣国大名の侵攻が相次ぎ、前途は多難であった。同7年、小山田氏と和睦がなり、内戦もひとまず小康を得たが、同12年(1515)、西郡(甲府盆地の西部)の雄族で武田の一族大井信達・信業父子が反抗し、駿河守護今川氏親がこれを助けて乱に介入した。武田信虎画像(大泉寺所蔵) 一族大井信達・信業父子が反抗し、駿河守護今川氏親がこれを助けて乱に介入した。
 10月17日、信虎は大軍をもって大井氏の城を強攻したが、深田に馬を乗り入れて大敗し、小山田大和守ら諸将の多くが戦死した。翌年も戦いは激烈で、駿河勢は国中では勝山城、郡内では吉田城(富士吉田市)を根拠に信虎勢を苦しめた。
しかし、14年1月、吉田城が落ち、勝山城も孤立したので、氏親も連歌師宗長を遣わして和を求めた。3月2日、和睦が成立し、大井父子も信虎に降った。信達の娘が信虎夫人であり、信玄の生母である。

◇躑躅ヶ崎館整備
 永正16年(1519)、信虎は居館を石和(館跡は甲府市川田町)から躑躅ケ崎(甲府市武田神社およびその周辺)に移して領国経営の拠点とした。甲府の誕生であり、甲府(甲斐府中の略)の地名もまた移館と同時に信虎によって命名されたいわれる。
 石和の地が平坦地で防禦体制をとり難く、またしばしば笛吹川の水害をこうむったのに対し、ここは相川扇状地の開部で北・西・東の三面に山を負い、南に甲府盆地が開けた要衝の地である。
現在の躑躅が崎館址 翌年には館の北東2.5kmの積翠寺丸山に要害城を築き、その後、さらに湯村山や一条小山など、館を囲む要地に防禦施設を固めた。信虎は、さらに城下町の建設にも着手し、国内の豪族諸将士を強制的に住まわせ、権力の集中化を図った。
 栗原・大井・今井氏らは、これに反抗したが、信虎の権力機構は同時に三面作戦を敢行して三叛将を降伏させるほど強固なものになっていた。城下には、さらに社寺を配置し、また商工業者を誘致し、職業別に住まわせた・三日市場・八日市場などの定期市も立った。後世、甲府には元三日町・元連雀町など、元字のつく町名が多く存在したが、これらは武田時代に城下町の町並みであった所であるといわれている。こうして石和時
代とは比較にならぬ大規模で強固な城館が構築され、天正9年(1581)に勝頼が新府城に移るまで、60余年、ここが武田三代の領国統治の中心となった。

◇福島勢の侵攻
 大永元年(1521)、今川氏の部将遠江土方城主福島正成が駿河・遠江の大軍を率いて富士川沿いを北上、9月16日大井氏の属城富田城(中巨摩郡甲西町戸田)を占領、ここを前進基地としてさらに北上して甲府に迫った。信虎にとって最大の危機であったが、幸いに10月16日、飯田河原(甲府市飯田町)、11月23日、上条河原(中巨摩郡敷島町)と2度の合戦に大勝した。戦いのさなかの11月3日、難を要害城に避けていた信虎夫人は、一子を生んだ。のちの信玄である。

◇今川・北条氏との対峙
 福島事件の勝利は信虎に自信を与え、積極的な対外政策に転換する契機となった。信虎は関東、駿河、さらに信濃を志向した。関東へは大永4年(1524)、山内・扇谷両上杉対北条氏綱の動乱に介入してから、斜陽の上杉氏を助けて新興の北条氏としばしば戦った。
 一方、駿河の今川氏とは和戦を繰り返した。氏親の子氏輝との間が天文4年(1535)、不和となり、信虎は駿河に出兵するが、今川氏を助けて北条氏綱親子が8月、大挙して郡内に乱入、武田勢が奮闘むなしく信虎の弟信友をはじめ小山田勢が多数戦死した。信友は勝沼(東山梨郡勝沼町)にあって勝沼氏を称し、郡内に駐屯して関東方面に備えると共に、郡内諸将の動静を監視する重要な役目を帯びていた。翌5年、氏輝が没し、継嗣問速が起きると、信虎は義元を支持し、ここに武田・今川両氏の関係は急速に好転、翌6年、信虎は娘を義元に嫁がせ、婚姻による密接な同盟を結んだ。

◇信虎の信濃侵攻
 信濃へは享禄元年(1528)9月、諏訪郡へ侵入、諏訪頼満・頼隆父子を攻撃して失敗する。
 同4年正月、信虎の重臣飯富兵部・栗原兵庫・今井信元・大井信業らがたもとを連ねて御岳山中に入り、諏訪氏の救援を得て府中を攻撃しょうと試みるが、信虎は2月2日の合戦および4月12日の河原部(韮崎市)の合戦で大井、栗原氏らを敗死させ、勝利を収める。
 翌天文元年(1532)9月、浦城(北巨摩郡須玉町江草の獅子吼城)に拠って最後の抵抗を続けていた今井信元を降伏させ、名実共に甲斐の国内は静穏に帰した。同4年、信虎は諏訪氏と和し、同9年、娘を諏訪頼重に嫁がせて同盟関係を強化、同年5月、佐久郡を攻略して一日に36城を落とすという勢いであり、翌10年は5月、小県郡に出兵、海野・禰津氏ら滋野一族を攻めてこれを上野に追放した。

◇信虎追放
 信虎の前途は洋々たるものがあるやにみえたが、この戦歴を最後に、輝かしい前半生は幕を閉じ、一転して失意の後半生が始まることになる。信濃から凱旋した直後、6月14日、信虎は嫡子信玄と一部重臣とが仕組んだ無血クーデターによって娘婿の験河今川義元のもとに追われ、これ以後、生きて再び甲府の地を踏むことはなかったのである。駿河へ追放された信虎は、永禄12年(1560)に今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れると京都へ入り、さらに高野山や諸国を流浪の後、死の直前になってやっと伊郡谷まで帰り、晴信の没後の翌天正2年3月、81歳で病死している。
【詳しく知りたい人】
都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会