武田勝頼(たけだかつより)

◇長篠合戦大敗
武田勝頼 元亀4年(1573)4月、信玄が病死し、四男勝頼に代替りする。
 2年後の天正3年5月、勝頼は三河長篠において徳川・織田連合軍に大敗し、宿老の多くを失った。小山田氏もこの合戦に参陣しているが、積極的には動かなかったようで、生き残った少ない宿老の一人である。長篠戦の敗北後、武田家臣団の世代交替が進み、旧宿老らは徐々に疎外されていった。勝頼と信茂との関係ははっきりしないが、天正5年(1577)正月に勝頼が北条氏政の妹を妻に迎えた交渉には信茂が関係していたとされる。
 信茂が外交の面で活躍した最後のものが、天正6年(1578)6月に始まる越後御館の乱後での上杉景勝への使者としての役割である。幸い相手方の上杉家に信茂と勝頼の書状が数通ずつ残っていて、その経過を知ることができる。
 同年6月24日付の上杉家臣斎藤下野守宛の勝類書状に初て信茂の名がみえ、この交渉が難行したともあって、同7年末に勝頼妹と景勝との婚儀が無事終了した後も、信茂は何度か越後へ使者として赴いている。
 最後のものは挿図に掲げた同九年五月の天正6年(1578)5月の越後御館の乱以降、小山田信茂が越後への使者となって外交の前面に立つようになり、天正3年5月の三河長篠敗戦後の武田領国の退勢は挽回すべくもなかった。

◇勝頼失政
 内政的には長篠戦で宿老の多くを失ったことで、新参者の登用を計らざるを得なくなり、家臣団の対立を招いた。領国支配の面でも織田信長の後援を得た三河の徳川家康と駿遠国境で対立し、さらに西上野で攻勢に出てきた越後上杉氏に対抗するため、領内に課す軍役が荷重になっていった。
 天正3年(1575)12月の17か条の軍役定書では、軍役は知行役の侍衆にのみ課されていたものが、同5年閏7月の3か条の軍役定書によると、「領中の貴賎十五以後六十以前の輩」すべてに年20日の軍役が課されており、その危機感も「当家興亡の基」と表現されている。
 外交面でも一貫性がなく、天正5年正月に北条氏政との同盟関係を強化するために勝頼はその妹を後妻に迎えながら、前述したように、翌年にはこの同盟に反して上杉景勝支援にまわり、再び北条氏と対決するに至った。
 これによって小山田氏領の武相国境周辺は緊張関係が高まり、駿東郡や西上野での北条氏との対立が激化していった。天正7年(1579)9月の北条氏政の下総千葉胤富宛の書状によれは「甲相両国近年改めて骨肉を結び、別して入魂せしめ侯ところ、其の曲なく表裏日を追て連続、とり分去年越国錯乱以来、敵対同前」と通知している。
 天正8年(1580)に入ると、武田勝頼が織田信長との「甲江和与」を進めているとの風聞があり、当時、越中で信長と対立していた上杉景勝からその点を詰問され、3月18日、重臣跡部勝資がそれは虚説であるとの弁明状を越後へ送っている。この跡部勝資は甲越同盟の実質的な推進者であり、同じく越後への使者となった小山田信茂との職務分担がはっきりしない。しかしこの勝頼の動きが単に風聞でなかったことは、織田方の人質としていた御坊丸を尾張へ送り返していることによっても明らかである(『信長公記』)。
 同年9月には、徳川家康が遠江に攻勢をかけ、武田方の拠点であった高天神城(静岡県大東町)を包囲した。穴山信君の救援にもかかわらず、翌年3月同城は落城した。この時期、北条氏との抗争も頂点に達しており、勝頼は沼津・西上野と防戦に東奔西走していた。しかし、こうした一連の軍役に小山田氏が参陣した形跡はみられない。ただ、越後上杉氏のもとへの使者の役割は、天正9年(1581)5月までのものがみられる。

◇新府城築城
 こうした状況のもとで、勝頼は同年正月になると、新らたに防衛のための築城を開始し、同月22日付の真田昌幸書状によれば、韮崎の地へ新城を築くに当って分国中の人足を集めて普請をし、人足は家10間につき1人の割合で30日間とみえている。同年12月26日付の諏訪大社祢宜矢崎氏宛の勝頼書状によれば、新館移転の祝儀の礼をのべているから、ほぼ1年を要して新城が築かれたことになる。これは甲府館が政庁・居館としての機能が主で、城郭としては不備な点が多いことによる。前述したように岩殿城にも同年3月、荻原豊前輩下の被官衆が御番・普請役として送り込まれている。これは武相方面からの北条氏の侵攻を想定したものであり、それまで小山田氏の城として余り機能していなかった同城を最大限に活用しようとしたものと思われる。
 武田勝頼は、天正9年(1581)の年末に新府城(韮崎市)へ移転したが、城はまだ完成しておらず、ましてや城下の整備は着手されたばかりで、家臣や町人の甲府からの移転は進行していなかったが、ともかく勝頼は天正10年の正月を新府城で迎えた。

◇木曽の謀叛と織田軍侵攻
 1ヶ月後の2月5日、親族であって信濃木曽領の領主であった木曽義昌が謀反したとの知らせが届き、勝頼は直ちに制圧のため出兵した。この時期には、徳川、北条両氏の攻勢に対処するため、将兵の多くを境目の城に派遣しており、勝頼の木曽出兵にはわずか数千の兵しか集まらなかったという。
 木曽義昌は織田信長に救援を求め、2月11日には信長が嫡男信忠を先陣として甲州攻めを開始した。
 こうした状勢は小田原城の北条氏政のもとにも知らされ、同年2月22日付の武蔵鉢形城主(埼玉県寄居町)の北条氏邦宛の氏政書状によれは、「信州の平地へ大軍が押出候はば、何とも防戦の模様、甲州なるまじく侯」とあって、すでにこの時点で武田氏の滅亡を見通し、北条方もこの機に乗じて武田領へ進出する構えをみせている。木曽に向った勝頼は鳥居峠で木曽勢の抵抗にあい、織田信忠の出陣の知らせに動揺し、一旦新府城へ戻って善後策を協議することにした。伊那郡へ入った信忠は逃亡する南伊那衆を追って、2月29日に伊那郡の拠点城であった高遠城(北伊那郡高遠町)を包囲し、籠城兵の勝頼弟の仁科盛信らに降伏勧告状を発した。その中に「勝頼は昨日諏訪へ引き退くのところに、小山田を始め国中の侍が討ち出すべきの由を申し来り」とみえており、勝頼の退陣を機に小山田氏らの武田家臣が離反の動きをみせたことを報じていて、すでにこの段階で勝頼の支配力が失われつつあったことを物語っている。しかしこの降伏勧告状にはまだ研究の余地があって、にわかにはこの説を信じがたい。
 高遠城は救援のないまま3月2日に落城し、城主仁科盛信ほか石田系小山田氏の小山田備中守昌行・昌貞兄弟らは戦死した。

◇武田家滅亡
 織田側の記録である『信長公記』によれば、新府城へ戻った勝頼は、3月3日早朝、館に自ら火を懸け、人質を焼死させた後に逃避を開始した。一行は勝頼夫人ほか一門・親類ら200人と侍衆600余人で、その中で馬乗りは20騎にすぎなかったと伝えている。『甲陽軍鑑』などによると、その前夜に最後の軍議が開かれ、西上野の岩櫃城代であった真田昌幸が岩櫃城への退去を勧めたが、小山田信茂は自領の岩殿城への退去を勧め、勝頼はこれに従ったという。武田一門の勝沼信友の妹で、柏尾山大善寺の尼僧であった理慶尼の書いた「理慶尼記」は、勝新一行が郡内領へ向った折、小山田氏の迎えを待つため大善寺に逗留した際の記録であるというが、これによれは、小山田信茂は同月6日まで勝頼らに同行しており、7日夜半に人質となっていた母を伴って郡内領へ戻り、その直後から笹子峠に兵を出して勝頼一行の郡内入りを阻んだと記している。
 織田信長は3月5日、ようやく安土を出陣し、7日まで岐阜城に滞在した後、11日に美濃岩村城に着陣している。この間、先陣の信忠は7日に上諏訪より甲府へ入り、一条氏の屋敷に本陣を置き、武田家一門、重臣の探索を開始している。3月11日、織田軍は勝頼が駒飼い(大和村)の山中に引きこもったとの情報を得て探索し、一行をとりかこませた。勝頼一行はのがれがたいことを知り、たがいに刺し殺し自刃した。
 『信長公記』によれば、この日成敗された人々の中に小山田信茂の名もみえており、「理慶尼記」の記事と一致しない。『甲陽軍鑑』や『甲乱記』にはこの時の状況が詳しく書れているが、小山田信茂が葛山十郎信貞とともに甲府の善光寺で殺されたとあるが日時は明記されていない。小山田氏の菩提寺である長生寺の位牌には「武山長文大居士」とあり、その忌日を3月24日としている。

【詳しく知りたい人】
都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会
上野晴朗「定本武田勝頼」1978 新人物往来社