中世
年号(西暦)
内    容
建久元年(1190)
◇頼朝成人後はじめて入落。数多くの甲斐源氏の人々と共に、7番目に 古郡次郎、57番目に 小山田四郎小山田五郎が登場する。
建保元年(1213)
和田義盛の乱がおこり、一族の 古郡保忠も和田の軍勢として出陣、敗れて波加利の東競石郷二木において自害。和田合戦の勲功で古郡氏の領地である 波加利本荘 を武田信光、 同新荘 を島津氏、 古郡を加藤氏、 福地郷を鎌田氏などに与える。
承久 3年(1221)
◇承久の乱がおこり、東山道大将軍は武田信光5万騎が出発し、この中に 小山田太郎の名が見える。
建武 4年(1337)
初雁五郎挙兵し、足利方を攻め柏尾山大善寺を炎上させる。
正平22年(1367)
◇南朝、南部信光に甲斐 神郷半分を、政持に 倉見山三分の一を与える。
明徳年間
(1390〜1393)
◇富春山桂林寺創建。
応永24年(1417)
◇上杉禅秀の乱に武田信満上杉方に同調し敗れる。信満木賊山にて自害する。
3年(1426)
◇足利持氏、武田信長を討つため都留郡に攻め入り大槻に布陣。
明応 8年(1499)
小山田信長、塩山向岳庵領の 田原郷を安堵する。
永正 5年(1508)
◇熊野先達の申状に 鹿留住4名の名が見られる。
小山田弥太郎ら郡内勢は、武田信恵の反乱に組みして、武田信虎に敗れる。
7年(1510)
◇国中・郡内が和睦する。
17年(1520)
小山田越中守信有ら郡内衆、 岩殿山円通寺再建のため寄進する。小山田氏、 猿橋を架ける。
18年(1521)
◇武田信虎、 船津より 中津森に下る。
大永 7年(1527)
小山田越中守信有中津森の屋敷を改築し、百坪の屋敷を造る。
享禄 2年(1529)
小山田越中守信有の母、遠州に行き姉に対面し、帰路 小林和泉守小林尾張守入道倉見新九郎に立ち寄り中津森に戻る。
享禄 3年(1530)
◇小山田越中守信有郡内一家国人衆を従えて猿橋に出陣し、八坪坂で北条氏網と戦い敗れる。中津森の 小山田館炎上。
5年(1532)
◇小山田越中守信有、 谷村に新屋敷を造り移る。
天文10年(1541)
小山田越中守信有が没し、 出羽守信有に代替わりする。
18年(1549)
鹿留住人等熊野実宝院の旦那となる。
19年(1550)
桂林寺住職、大旦那小山田出羽守信有の病気平癒を岩殿山に祈頼する。
小山田出羽守信有、子息藤乙丸らを引率して、大善寺再建法要に参詣する。
20年(1551)
◇上原伊賀昌辰、小山田氏の名跡をつぎ小山田備中守を称する。
21年(1552)
◇小山田出羽守信有死去。葬式御共人衆1万人。
小山田出羽守信茂に代替りする。
◇小山田出羽守信茂、武田晴信母大井婦人の葬儀に参列し、武田被官衆の最初に焼香を勤める。
23年(1554)
◇武田家・北条家の婚儀が進められ、武田晴信の息女を小山田信茂が使者として小田原へ送る。
永禄10年(1567)
◇武田信玄、小山田信茂並びに小山田氏被官に起請文を提出させる。
元亀 3年(1572)
◇小山田信茂富士参詣道者の郡中開銭の半減を命ずる。
4年(1573)
◇小山田信茂長生寺領を安堵する。
天正 6年(1578)
◇武田勝頼、小山田信茂を使者として上杉景勝・景虎の調停に当たらせる。
9年(1581)
◇武田勝頼、 岩殿城に国中衆の在番を命ずる。
10年(1582)
◇武田勝頼新府城に火をかけ、郡内に向かって逃亡する。信茂、勝頼一行の郡内入りを拒む。3月11日勝頼自害。3月24日織田信長により信茂、甲府善光寺にて誅殺される。
◇北条氏政甲州へ侵攻し、徳川家康と対陣する。鳥居元忠 黒駒合戦にて北条氏忠を破る。
◇甲斐国は徳川家康の領地となり、鳥居元忠都留郡1万8千石の領主となる。
18年(1590)
◇徳川家康の関東移封に伴い 鳥居元忠下総国矢作4万石の城主として転封。
◇羽柴秀勝家臣、三輪五右衛門近家都留郡入部。
19年(1591)
◇加藤遠江守光泰家臣佐内が都留郡入部。
文禄 2年(1593)
◇浅野長政の家老浅野氏重 勝山城を改築。
◇浅野長政・幸長父子、甲斐21万5千石を受封(長政5万5千石、幸長16万石を知行)家老浅野氏重は都留郡を領す。

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