谷 村 陣 屋(やむらじんや)

谷村陣屋跡 宝永元年12月、秋元喬朝が武州川越へ転封となり、宝永2年(1705)都留郡は御料所となり、谷村に代官所が置かれた。宝永元年12月に川越より柳沢吉保が甲府へ入封し、同3年7月に都留郡は柳沢氏の預り地となり20年の長期に及んだ。
 享保9年(1724)3月、柳沢吉里が大和郡山へ転封した後は、甲府勤番支配と代官支配による一国の地方行政が行なわれ、明治元年まで144年間にわたり天領としての期間がつづき、ときには石和・甲府・伊豆韮山の代官に預けられて出張陣屋ともなり郡内地区の行政が行なわれた。
谷村陣屋(旧高山甚五兵衛宅) 代官所は勘定奉行の支配下に属し、数年で交替される代官のもとに手付、手代が置かれ、陣屋に勤務する者と、江戸詰めの者に分かれた。
 また、公事方(主として訴訟)・地方(主として年貢取立て)・書役(庶務会計)の各役職がおかれ、治安・税務・訴訟などの政治が行なわれた。
 村役のつとめは、輪番か入札(いりふだ)によって選ばれた名主の家が村役所となり、長百姓は補佐役、百姓側の代弁者を百姓代といい、これを「三役」と呼ばれ、村内の納税、その他の義務を行ない村を治めた。 (城下町から天領へ)
宝永元年(1704)
秋元喬知川越に転封を命ぜられる。(『徳川実記』)
2年(1705)
2月17日、甲州谷村城破却命ぜられる。(『徳川実記』)
2月22日、川越城を先の主松平美濃守吉保より受取りの御目付岡部庄左衛門、御番衆柴田三左衛門、郷方御代官柴田三郎左衛門、片野総左衛門、佐野与右衛門等也(『原委私鈔集』) 先ず、川越城を受取り、後に都留郡に入った。
2月29日、谷村泰安寺にある所の長朝、泰朝、富朝の三宝を上州総社の光厳寺 へ遷す。(『原委私鈔集』)
3月12日、柳沢吉保山梨,巨麻、八代三郡一円に給わり、これより甲斐の国主 と称す。 (『徳川実記』)
3月21日、谷村を発駕して川越に移る。(『甲斐国志草稿』領主部) 御料御代官清野与右衛門、町野惣右衛門宝永2年3月より御代官両人にて支配。宅邸を毀て、田畑を開き城築を崩して溝池を埋め、唯高山甚五兵衛ヵ旧宅追手の東北の側にあり此の宅を残して陣屋也、一郡の政務を行う。6月より平岡次郎右衛門同彦兵衛支配となる。
3年(1706)
7月4日、甲斐都留郡を松平美濃守吉保に預けられる。(『徳川実記』)
【詳しく知りたい人】
都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会
都留市史 資料編(其の一其の二)近世U 1994 都留市史編纂委員会