甲 州 騒 動(郡 内 一 揆)

竹槍 8月14日、都留郡上谷村(都留市)の米商人など6軒の打ちこわしをきっかけとして、同20日、下和田村次左衛門(武七)と犬目宿兵助の両人を頭取として、甲州街道沿い22ヵ村農民2000人余は、白野宿(大月市)に蜂起した。農民たちは、15力条の行動綱領を定め、統制ある行動をとることを一同誓約した。同日、黒野田宿(大月市)を中心に、米商から米の押借りをおこなうが、この段階ではかならずしも暴動は意図されていなかった。
 翌21日朝、笹子峠を越えて国中に入ると、駒飼宿(大和村)をはじめとする本格的な打ちこわしに発展する。
竹槍(用津院蔵)(甲州騒動の顛末が刻まれている)全長1985o直径33o そして、街道沿いの豪農・宮商を打ちこわし、あるいは饗応せしめつつ西進する一揆は、国中の貧農・小作・無宿の大量参加によって、拡大と激化の方向をとる。
 22日、郡内農民が主目標とした山梨郡熊野堂村(春日居町)の豪商奥右衝門を襲撃したときには、1万人以上に達したといわれる。
 郡内勢のほとんどはここから引きあげたが、国中の暴徒は、23日朝には、山梨・八代両郡から甲府城下に迫った。甲府勤番支配は与力・同心を、甲府代官所は手附・手代・足軽の出動のほか、町方人足を多勢寄せ集めたものの防ぎえず、町方に乱入した一揆は、13軒の富商を襲った。甲府勤番をはじめ三代官所の軍事力はまったく無力化され、甲斐国内は無政府状態となった。 
 そして、24日朝になると、「徒党の者共、追々多人数召捕候儀を遺恨に存、甲府境町牢屋敷打毀、囚人可盗去と、私陣屋も打毀火を放候由の風聞」もあって、ここで信州諏訪藩・駿州沼津藩などへの出兵要請となる。 巨摩郡村々を打ちこわし、甲信境まで押しかけていった一揆勢は、諏訪藩兵と御嶽山神主の出動によって、26日に鎮圧されるが、この数日間における打ちこわしは、甲府町方のほか106ヶ村、305軒におよんだ。
 同9年5月断罪となるが、死罪13人のうち12人牢死、追放93人をはじめ、受刑者総数562人を数えた。
【詳しく知りたい人】
都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会
都留市史 資料編 近世T 1994 都留市史編纂委員会