八朔祭屋台(はっさくまつりやたい)
- 八朔とは
- 八朔とは、旧暦8月1日のことで、かつては年中行事として特別の日とされていた。この時期になると二百十日前後で、実りの秋を迎えて作物が台風の被害を免れるよう、神を迎え、神に豊饒を祈り頼む、つまり「田の実」の節供の日であった。
また、この日は徳川家康が天正18年(1590)江戸城を開いた日であり、寛永年間頃から幕府では年中行事として位置づけた。 江戸城では諸大名が登城し、将軍に太刀や馬を献上するご機嫌伺いをする日であった。
新暦になってからは、この八朔節供の行事はすたれてしまったが、本来農村行事として、八朔餅や饅頭などを作り祝った。またこの日を馬節供として祭事を行っていた地方もある。
- 八朔祭りと屋台
- 毎年9月1日(朔日)は、生出神社(市内四日市場)の八朔祭りで、下天神町、早馬町、新町、仲町、下町、高尾町と宮本である四日市場の氏子により、大名行列と屋台の巡行が行なわれる。
かっては、各町の若者たちが競って豪華な屋台幕を飾った屋台を繰り出し、その屋台で、芸者や若者たちが喋子に合わせてさまざまな出し物を演じ、豊年に対する感謝と喜びを捧げた。
日暮れてあたりが暗くなると、屋台を飾る提灯に灯が入り、その灯に豪華な幕が照らされ、まるで幻想の世界にいるようであった。
このような屋台の巡行も交通事情等で一旦は姿を消したが、住民と行政が一体となり、近年再び屋台(市指定文化財)の復元と共に復活した。
八朔祭屋台は、江戸時代を代表する浮世絵師である葛飾北斎や、鳥文斉藤原栄之などの手による飾幕によって豪華に彩られているという特色がある。
この飾幕には、正面舞台上を飾る水引幕、舞台下を飾る泥幕、屋台後部を飾る後幕、舞台裏を飾る中幕などがある。
これらの内、早馬町の後幕は、「牧童牛の背に笛を吹く」の図柄で、中幕は、柳文朝筆、南柳斉の落款があり、白縮緬に黒一色の濃淡で、15頭の馬が気がねなく左右に遊び戯れている。
下町の後幕は、「虎」の図柄で、金糸・黒糸のだんだらで縫いとられ、あしらった緑の竹も影がうすいはど猛い獣王の姿である。虎の爪、牙は鋲銀された真輸で、爛々たる両眼はガラスを光らしたものである。「東陽画狂人北斎筆」の落款がある。中幕は三番叟の翁の舞姿の墨絵で、盛里出身の旭岳麟の銘がある。
新町は、「鹿島踊」の図柄で、鹿島神宮を現わす神域に白丁を着け、烏帽子を被った男三人が事触れしっつ囃し立てている愉快な模様である。
仲町の飾幕は鳥文斉藤原栄之図の落款があり「桜に駒」の図柄であったが、昭和10年9月、崖崩れで公園の倉庫が土中に埋没する難に遭い、わずかに花びらを残したのみで刺繍のあとを残した緋ラシャの地となった。
これらの塑帯は、歳月の流れにいたみが甚だしかったため、著名な染織研究家である山辺知行氏が20余年にわたり自ら指導と補修にあたり、いづれも立派に復元され、市の文化財として保存されている。
- 屋台の創建年代
- 新町屋台は、復元にむけての部材調査が昭和51年に実施されたが、このとき朱塗りの高欄に「文化九年申七月、大工棟相川清兵衛」との墨書きが検出され、また、台輪の横木には「明治三拾四年第九月新製、新町共有材屋台」との墨書きが発見された。
このことによって、新町屋台が文化8年(1811)に作られたことが判明した。
仲町屋台は、懸漁裏に文化13年(1816)の建造年と仲町の川口屋、白木屋など16名の墨書が認められる。
-
- 【詳しく知りたい人】
- 都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会
開館記念特別展図録『八朔祭りと葛飾北斎』1999 都留市博物館「ミュージアム都留」
棚本安男 「城下町の祭礼」 郡内研究第10号 2000 都留市郷土研究会