年号(西暦)
内    容
慶長5年(1600)
◇関ヶ原の戦いの後、東軍に味方した浅野長政・幸長は戦功により紀州和歌山37万6,500石余を与えられ転封となる。谷村城主浅野左衛門氏重も和歌山に移る。
6年(1601)
鳥居成次、父元忠の旧領地都留郡1万8千石の谷村領主となる。
17年(1612)
◇鳥居成次、勝山御室浅間社の山宮の本殿を再建する。
元和元年(1615)
◇鳥居成次、北口本宮富士浅間神社本殿を造営する。
2年(1616)
◇徳川忠長(家光弟)が甲府城主となり、成次は忠長の家老職となる。
寛永8年(1631)
◇郡内領主鳥居土佐守成次没(62歳)。子、鳥居淡路守成行(忠房ともいう)が父の遺領3万8千石と忠長の家老職を継ぐ。
9年(1632)
◇幕府は徳川忠長を甲斐国に幽閉。鳥居淡路守成行(忠房ともいう)も改易となり出羽山形の鳥居忠恒に預けられ蟄居した。
◇谷村在番に本堂伊勢守茂親、設楽甚三郎貞代らが任命される。
10年(1633)
2月3日
秋元但馬守泰朝3千石加増され、上州総社から甲州郡内領(1万8千石)に入封。
◇入封初期の頃、元鳥井家侍医土田宗徳は秋元家の侍医として召抱えられる。
2月19日
◇歩行頭朽木与五郎友綱他に宇治茶詰事奉る。(茶壷道中の制度化)
◇秋元氏、上州より裁桑・機織の技術を導入。郡内産業の改良をはかる。
11年(1634)
◇秋元泰朝、日光東照宮の大造営に際し造営奉行をつとめる。(13年完成)
13年(1636)
◇秋元泰朝、十日市場から谷村にいたる大堰(谷村大堰)の開削工事に着手する。(寛永16年(1639年)完成)
18年(1641)
10月5日
◇秋元家の菩提寺泰安寺が創建される。
◇秋元泰朝、上吉田の諏訪明神前に富士山遙拝の大鳥居を建つ。
19年(1642)
◇歩行頭石野八兵衛氏照、茶壺を受取に甲州(谷村)に来訪。(『徳川実記』茶壺谷村保管の初見)
20年(1643)
秋元但馬守泰朝没(63歳)。遺骸は泰安寺に埋葬される。子越中守富朝が継ぐ。
◇御水尾天皇第八之宮良純親王甲斐に配流され、秋元富朝が守護する。
慶安2年(1649)
◇秋元富朝、北口本宮富士浅間明神の本殿・拝殿・幣殿を修造。
明暦3年(1657)
◇秋元越中守富朝没(48)養子(外孫)喬朝が継ぐ。
寛文5年(1665)
秋元但馬守喬朝、攝津守を改める。藩内の絹紬旅売人のために藩邸を経由する為替仕法を設ける。
6年(1666)
◇秋元喬朝、北口本宮富士浅間明神大鳥居を再建。
7年(1667)
◇郡内農民の代表庄屋2名、谷村の秋元氏役所へ小切租法適用による滅租を歎願。
祖暁禅師都留郡宝村大奈良(現、都留市金井)に生れる。
8年(1668)
◇前年の郡内藩愁訴代表の庄屋2名を処刑。
◇郡内の農民代表7人、江戸の藩邸へ再び減租を歎願。
9年(1669)
◇秋元氏家臣今井半兵術ら奉行して、郡内藩一円検地を行う。石高1万962石851合となる。このとき徳重社へ聖徳太子像を安置す。
◇秋元氏、寛文年間に家中の内職に郡内平(夏袴)を織らせる。このころから繊物がさかんになる。
10年(1670)
◇大幡広教寺蔵の版本(大般若経)なる。
12年(1672)
◇秋元喬朝、北口本宮富士浅間明神に富士山北面の画(狩野永真筆)を寄進。
延宝2年(1674)
今井堰(上暮地、小沼)、梁尻堰(新屋、松山、吉田、明見用水)を開さく。
5年(1677)
◇秋元喬朝奏者番に任ぜられる。
6年(1678)
◇秋元喬朝、上吉田富士浅間明神本殿などを修復する。
8年(1680)
◇郡内の農民63人、江戸の秋元氏藩邸へ三たび減租を歎願。
天和元年(1681)
◇1月22日郡内農民代表7人、秋元氏の失政を江戸町奉行に越訴、同年2月25日首謀者7名死罪となる。
◇巡見使、渡辺九助、宮埼七郎左衛門、武藤庄兵衛ら信州から甲州に入り、7月23日郡内に入る。
◇秋元喬朝若年寄兼寺社奉公に昇進。
3年(1683)
◇深川芭蕉庵が類焼したため松尾芭蕉は秋元家家老高山伝右衝門(俳名麋塒)の招きにより谷村に来訪。9月芭蕉庵再興の山口素堂「芭蕉庵興勧化文」を出す。
貞享2年(1685)
◇松尾芭蕉「野ざらし紀行」の帰路谷村に立寄る。
◇秋元攝津守喬朝、再びm馬守を称する。
3年(1686)
高山甚五兵衛朝繁、母の供養のため円通院へ梵鐘を寄進。
4年(1687)
高山伝右衛門繁文の妻、仲町大神宮へ神鏡2面を奉納する。
元禄元年(1688)
◇秋元喬朝、上吉田富士浅間明神へ絵馬(狩野常信筆)を奉納する。
◇秋元喬朝、吉田に大鳥居を造営する。
2年(1689)
◇秋元喬朝、江戸城三の丸造営の総奉行を命ぜられる。
桂林寺庫裡を再建。(貞享2年火災により諸堂消失)
3年(1690)
◇秋元喬朝、河口湖から剣丸尾の聞30町の掘抜水道(新倉掘抜き)工事に着手。
御茶壷道中の甲斐国交通が止められ、勝山城への貯蔵廃止される。(甲州海道史料)
4年(1691)
◇秋元喬朝、下野国都賀郡の内に5千石加増され、2万3千石となる。
5年(1692)
◇佐伯橋が落ち翌年滝の直上に架ける。
7年(1694)
◇秋元喬朝7千石加増され3万石となる。
松尾芭蕉大阪の地に没す。(51歳)
10年(1697)
◇秋元喬朝、河口浅間に輪王寺宮公辨親王筆の扁額を奉納する。
12年(1699)
◇秋元喬朝、老中に任ぜられ従4位下に叙せらる。
13年(1670)
◇秋元喬朝下野国足利都賀、河内国丹南、丹北四郡の内に1万石加増され4万石となる。
◇秋元喬朝侍従となる。
14年(1701)
◇秋元喬朝、河口湖から剣丸尾への掘抜き水道工事は随道のくい違いのため通水に失敗し計画を放棄する。
◇秋元喬朝、富士浅間明神に銅の灯籠を寄進する。
宝永元年(1704)
◇このころ郡内織の縞、平織りに加えて綾織りが考案される。
◇喬朝関東震災による石普請を奉行した功により1万石加増され5万石となる。
◇喬朝川越城主となる。(12月25日)
2年(1705)
◇谷村藩は徳川幕府の直轄地となり、秋元家老高山甚五兵衛宅を谷村陣屋とする。
◇柳沢吉保、甲府へ所替えとなる。
◇谷村城を破却し、松平下総守信治谷村在番を命ぜられる。
◇秋元但馬守喬朝、谷村を引き払って武州川越城に移る。そのあと都留郡は清野与右衛門、町野惣左衛門の両人が支配する。
◇平岡彦兵衛、同治郎右衛門、都留郡の支配を命ぜられる。
◇柳沢吉保隠居し、吉里家督を相続する。
3年(1706)
◇柳沢氏、都留郡を預かり長谷川六兵衛が代官となる。
4年(1707)
◇未明から富士山が大噴火し、関東一円に砂が降り宝永山が出現する。
正徳3年(1713)
◇宝永3年以来柳沢氏に預けられていた都留郡は直轄に復す。
◇都留郡の年貢は全額金納となる。
4年(1714)
◇秋元但馬守喬朝(喬知)没、(66歳)
享保元年(1716)
◇甲州海道を甲州道中と改称し、三海道と区別する。
3年(1718)
◇秋元喬知の家臣高山伝右衛門繁文(俳号麋塒)没。(70歳)
9年(1724)
◇柳沢氏大和郡山転封により、甲斐国は幕府直轄領として代官支配となる。都留郡は従前通り河原清兵衛が支配する。
16年(1731)
祖暁禅師秀道院において示寂、65歳。
17年(1732)
◇三宅地来「万金産業袋』の中に郡内絹を紹介。
寛延3年(1750)
円通院山門覚雄殿造営される。
宝暦11年(1761)
森島其進(弥十郎)下谷村に生れる。
安永8年(1779)
◇四日市場村、生出神社氏子、熱田神宮御神楽の免状を授けられる。
天明2年(1782)
二か堰工事起工の鍬入れが行なわれる。
4年(1784)
◇谷村代官中井清太夫、いもの種を甲斐の諸地方に作付させ「せいたいも」の名を残す。
◇このころ郡内縞八丈、黒八丈がさかんに織られる。
寛政2年(1790)
◇京都の国学者加茂季鷹、甲州紀行『富士日記』を著す。
6年(1794)
◇田野倉の俳人枕蛙窟運水『猿橋小集』を刊行。
10年(1798)
◇ニケ堰の工事、17年の歳月を重ねて完成。
文化2年(1805)
◇甲府勤番支配松平定能により甲斐国志編集調査計画はじまり、森島其進も参加する。
3年(1806)
『甲斐国志』編さんのための資料調査に関する廻章が村々の名主あてに発せられる。
◇田野倉の俳人枕蛙窟運水『氷面鏡九十四人集』を刊行。
9年(1812)
八朔祭新町屋台が製作される。
10年(1813)
妙心法師御正体山を開き信者を広げる。
11年(1814)
◇松平定能縞集の『甲斐国志』完成。
12年(1815)
妙心法師、ミイラ(即身仏)となって入寂、38歳。
13年(1816)
八朔祭仲町屋台が製作される。
文政4年(1821)
◇「甲斐国志」都留郡の部の編纂者、森嶋其進、没。
8年(1825)
藤堂良道、田原の滝を詠む。詩碑建立。
12年(1829)
◇都留郡でわが国最初の黄繭蚕種をつくる。
天保5年(1834)
◇平栗厚原堰開さく計画がされたが実施をみずに終る。
7年(1836)
◇都留郡の貧農ら、徒党して上谷村の米穀商6人の居宅を襲う。
◇都留郡の農民2,000人余りが蜂起して国中に乱入し、空前の大騒動(甲州騒動)となる。
13年(1842)
◇代官佐々木道太郎、谷村陣屋内に教諭所を設立。
弘化3年(1846)
◇日本新聞の先覚者栗本鋤雲谷村に滞在し、上谷法泉寺門前でヒトデの化石をひろう。
4年(1847)
◇上手にコカゲさんが祀られる。石柱に養蚕神と刻む。
嘉永4年(1851)
◇谷村に「興譲館」を開き一般子弟を教育する。
6年(1853)
◇境村の天野海蔵、江川太郎左衛門(担庵)に協力して人夫頭をつとめ品川台場を築造する。
安政2年(1855)
◇江戸の俳人田川卓郎、谷村に遊び郡内紀行「庭日より」を刊行、猿橋の菊守園見外、盛里の杉本杉夕の作品ものせる。
文久2年(1862)
槇田斯興雨宮六園のあとをつぎ興譲館の教授となる。
3年(1863)
◇宝村の俳人小林椿翁没。
元治元年(1864)
田村提一郎槇田斯興のあとをつぎ輿譲館の教授となる。
明治元年(1868)
笠井光謙、輿譲館の4代目教授となる。

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