大町桂月(おおまちけいげつ)

谷村町駅車中の桂月 雅号を桂月と称した。本名は芳衛。土佐国高知北門筋士族大町通の3男として明治2年(1869)1月24日に生まれた。軍人を志したが近眼のため断念して、一高を経て明治26年東大国文科に進み、同29年卒業した。
 文才にぬきんで、大学在学中すでに文名を知られていた秀才であった。詩人で漢詩をよくし、又随筆家、文学評論家として美文調の名文をもって多くの著書を残した。
 なかでも、大正11年5月刊行の『大町桂月全集』(全12巻)は有名である。特に紀行文の持ち味は無類といわれ、多くの愛読者から絶賛されている。
 剽悍で寡黙誠に謹厳であるが、一面又ユーモアの持主でもあり、若い頃から登行を好み、晩年は、殆んど旅に明け暮れし、その足跡は国外にも及んだ。
 桂月著『伯爵後藤象二郎』の中に明治20年4月、伯爵は島本仲道の乞に由り、大江卓と共に甲州谷村に遊ぶ。「清客孫点、日下部鳴鶴、三島中州等亦至り、風流翰墨の筵を開く、(中略)この遊は清遊にして、政治的運動に非ざりき。」と谷村を紹介している。
 大町桂月が大正13年に当地に訪れたが、その時の様子を宮井幾三(故人)が次のように記している。
 「大正13年7月26日午後3時7分甲府駅着列車で桂月先生来甲、翌27日駒ヶ岳、白根山縦走をした。その一行は甲斐山岳会々長若尾金造、リーダー大沢伊三郎、三井信量、佐藤八郎、西室貴義、土屋輝雄6名外7名、人夫13名計26名の大編成であった。
 続いて翌8月23日郡内山嶺道路縦走のため山岳会員輿石正人及び中村粂吉両氏を帯同して谷村に向う。差し向けの奥源禄氏の出迎え案内で富士山麓線で谷村町駅に下車、中町鈴木亭において地元山岳会々長大江明正、槇田保、高橋幾久治、西室貴義、宮井幾三、小林治郎、奥源禄、三枝中庸、杉本彦太郎、仁科正雄の10氏による歓迎会を開催。昼食後再び電車にて小沼駅、西桂村々長前田幸夫氏等に迎えられ、役場において休息、地元三ッ峠保勝会より前田久光、前田昇、御料局谷村出張所員前田巌の3名外計6名同行し、旅装を整え三ッ峠に向う。リーダーは宮井幾三が担当する。
 ダルマ石−馬返−石割大権現−八十八大師−親不知−長屋−不動滝−頂上へ、それより見下岩を過ぎパノラマ原において、保勝会員の方々に御苦労を謝し別れを告げ、稜線を西下し、御坂峠に至り、大石村青年団員の出迎えを受け、この一行とともに黒岳を経て大石村へ下り、役場のお計いで民宿第一夜を明かした。
 翌24日早朝宿舎を発し、大石峠−節刀岳−十二ケ岳ー鬼ケ岳−健掛峠−王岳−段和山(紅葉台)−精進ー山田旅館泊。
 第3日旅館発−根場ー西湖−長浜ー勝山−船津に至り開運亭において、地元役場主催による有志の盛大なる歓迎会あり、同行者全員参加する。終了後多数の見送りを受け、電車にて大月に向かう。
 幸にして天候に恵まれ、無事跋渉を終えて、夕刻上り列車で大月駅発にて帰る。
 桂月は、青森県北上郡十和田湖町にある蔦温泉を愛好し、遂にここに籍を移した。
大正14年(1925)6月10日、56歳の生涯を閉じた。